山室のフェイクニュース

酩酊状態で書いてるので自分でもよく分かってません。

嘘のオモシロについて

山室です。

 私の個人的な興味に基づいて『嘘』、とりわけ陰謀論や都市伝説の類に見られる「あからさまな嘘」や「不必要な冗長性」が面白さに与える影響についての研究をしていきたいと思っています。

 今回は第一回ということもありますので、先日深夜にTwitterに投稿した内容についてまとめながら振り返ってみたいと思います。

twitter.com

https://2.bp.blogspot.com/-8AROLi2gvas/U8XlXylongI/AAAAAAAAi-A/2wRauiNe8rM/s800/usotsuki.png

(嘘つきのイラスト)

問題提起

 質・量の公理:語用論におけるグライスの会話の協調原理のうちの二つ。簡単に言うと「会話を円満に行うために会話参加者全員が守らなければならないルール」のことで、質の公理は「真実だけを言いなさい」量の公理は「必要最低限の文量で言いなさい」ということ。陰謀論や都市伝説はそもそも「真実でない」上に尾ひれがたくさんついているので文量が多く、質・量の公理に違反していると言えます。

 嘘は「真実でないこと」を指すのですべての嘘が質の公理に違反しており、会話の協調原理に反します。しかし「嘘も方便」という言葉があるように嘘は広い意味でのコミュニケーションを円滑にするためにある程度の必要性を認められていると言えます。

 しかしながら嘘は「相手を騙す」という側面を孕んでいるため「嘘吐きは泥棒の始まり」として窘められることが多かろうと思います。無論、真実でないことを会話の中で伝達することは上記の協調原理に垣間見える「会話の目的」に反しており、真実か嘘かという判断にかかるコストを相手に負担させるという点からも望ましいものではないはずです。

 一方で多くの言葉を用いた娯楽には必ずと言っていいほど「嘘」が含まれていることも無視できない事実です。例えばコントなどで行われる場面設定は必ずと言っていいほど嘘です。舞台上であるにも関わらずコンビニであったり給油スタンドであったりします。またドラマや映画なども嘘です。私が嘘に興味を持つきっかけになった陰謀論や都市伝説の類も当然ながら嘘です。これらは通常「フィクション」と呼ばれますが、日本語にすれば「虚構」すなわち嘘です。むしろ私たちが日常会話以外で享受する言語情報は真実であることの方が少なく、「ノンフィクション」という有標の表現が用いられるほどです。

 以上のことから導かれる事実として、「嘘は娯楽性が高い」言い換えると「嘘は面白い」ということが言えるだろうと思います。ここまでに挙げた例は飽くまで「日常会話以外の」という枕詞が付くフィクションであるという点を留意する必要があります。今後は「日常会話以外の嘘」をフィクションと定義し、日常会話における嘘と区別したいと思います。以下のツイートからは日常会話における嘘とフィクションを混同していながらも嘘の一般特性について考えているようです。

(山室は深夜まで深酒をしながらツイートしているので正気ではありません。)

「嘘が面白い」のか?

 ここでは「日常会話において嘘を吐く(事実を隠す)」ことと「フィクションを演じる」ことを比較しているようです。前段は「嘘を吐く人には嘘を吐く理由があるため、隠されている事実を表明することはその人の事情を慮っていない」ということを指摘していて、後段は「あからさまな嘘は誰かの利害関係に影響しない限りにおいて際限なく自由である」ということを言っているようです。

 つまり「事実が面白くない」というのは、「事実はいつでも誰かにとって不都合である」ということで、それ(不都合な事実)を隠すことは各個人の自由において許されるべきであるという考え方が内包されているように見えます。実際、少なくとも法廷などの真実だけを述べることが求められる場以外では文字通り「誰が何を言ってもいい」筈なので、この指摘は大きな間違いを含んではいないと思います。日常会話における嘘の利害関係者は基本的に嘘の発話者のみであり、その人の意志に反して事実を開示することは、あえて隠していた不都合な事実の開示に他ならないので不快感(面白くないという感情)を伴う、ということになろうと思います。

 ツイートでは「嘘」としていますが、フィクションは飽くまで「創作物」の枠を超えないのでどれだけ大げさな嘘であってもそれは創作者の不都合な事実を隠す意図でなされたものではないため、利害関係者が不在であると言えます。そのフィクションによって自身の立場や人格などを傷つけられたと感じるいわゆる「当事者」と呼ばれる人達が利害関係者になるということを『それを不快に感じる人』と表現しているのだろうと思います。例えば昨今ネタにされている「ヴィーガン」や「フェミニスト」の方にとってはそれが虚偽(フィクション)であっても看過できないジョークというものも巷に溢れていることだろうと思います。フィクションはそういった人たちのことを想定しなければ幾らでも吐き続けられる嘘なので『幅が効く』ということになると思います。真実だけを言い続けるというのも案外大変なものですから。

嘘は生存戦略

 以上のことを踏まえると、例として「ヴィーガン」を取り上げますが、あるコミュニティが「ヴィーガンの方が不快に思うフィクション」を生産し続ければヴィーガンの方は自らそこから離れていくので、そのコミュニティは必然的に「ヴィーガンがいないコミュニティ」になります。ヴィーガンを必要としない(排除したい)人達にとっては 自分自身が払うコストを最小限に抑えて理想の集団を形成できることになります。嘘、とりわけフィクションはコミュニティの形成・維持において多大な効果を果たすと言えると思います。

フィクションはノーリスク

 『通常の会話』 というのはつまり「情報伝達を目的とした日常会話」であるので、そこに虚偽や隠蔽があると情報伝達という目的を果たす障害になります。『違反の補償』というのは具体的には質・量の公理違反に対する補償であり、要するに隠していた事実を開示したり足りなかった情報を補填するということです。

 

A「昨日家でたこ焼き作ったんだけどさ」

B「え、たこ焼き機持ってるの?いいね」

A「いや、冷凍たこ焼きね」

 

以上の会話ではAはBを騙そうとして嘘を吐いたわけではありませんが、AとBの間で「作る(調理する)」という動詞の指示範囲に関する誤解があったため、「冷凍たこ焼きである」という情報を補填することで情報伝達の目的の達成を目指しています(この後どんな会話が続くのかは分かりませんが)。日常会話において質・量の公理違反は「正しい伝達」の妨げになるということがこの例から分かっていただけると思います。

 一方でフィクションは事実でないことが前提である創作物であるので「鵜呑みにする方が悪い」という理論が成り立ち、補償の必要がないと言い切ることが出来ます。フィクションはコストもリスクもなく運用できる言語ストラテジーであると言えそうです。

三者が抱えるリスク

  ここでは発話者以外による事実の開示に触れています。上に示したように発話の質・量の公理違反は誤解や齟齬が生じた時に、発話者の任意のタイミングで補償することになります。反対に会話を続ける上で不都合がない限りは補償しなくても構わないとも言えます。日常会話における嘘には「不都合な事実を隠す」という側面があり、それがそのまま発話者の都合と言い換えられます。つまり発話者の意図に反して事実を開示することは発話者の不都合になるということです。

 発話者にとっては「事実が隠蔽されている」ことに価値があるわけですが、一度暴かれた事実をもう一度隠すことは出来ないので、物品の汚損・破損事故のように修理による原状回復や同等物による弁償が不可能であるということをここでは述べています。つまり何が言いたいのかは分かりません。

嘘は知的好奇心を刺激する?

  『その時限りの嘘』は「日常会話における嘘」と言いかえて良かろうと思います。日常会話における嘘は上記のように発話者が自己の何らかの利益の為に吐いているということが予想されるため『利益が明確』であるということになります。『そのコミュニティに於ける嘘』というのは先に例示したような「コミュニティ形成・維持のための嘘」を想定していると思われます。これも嘘によって生じる利益は「~ための」と明確に表れています。

 ここでようやく『陰謀論や都市伝説の類』を想定した議論が出てきました。『場所的に時間的に離れる』というのは要するに「誰が言ったか知らないが」という前提が付くということであろうと思います。時空間的に発話者から離れ、独り歩きを始めた嘘は「誰が吐いた嘘なのだろう」という知的好奇心を刺激するということを言いたいのだろうと思います。実際、「昔々あるところに~」から始まる昔話の類などは発祥はどこなのかといったことが議論になりますし、映画『リング』でも松嶋菜々子演じる記者が巷で話題の都市伝説の出処を調べるところから物語が始まっています(私はこの映画、冒頭しか見てません)。

嘘が持つ娯楽性

 前段落の「時空間的に発話者から離れ、独り歩きを始めた」ということを説話化の要件として立てると、説話には現在性がないと言えると思います。パズルとしての娯楽性というのは上述の「誰が吐いた嘘なのだろう」という部分を表しますが、詐欺としての娯楽性とは何なのでしょう。聞き手を騙すことによって得られる優越感ということであればむしろ現在性を必須とするように私には思われます。説話化した嘘は通常の人であれば物語として受け止めるため「騙された!!!」と打ちひしがれるようなこともないですし、優越感に浸る語り部も通常はいない(生存していない)と思います。深夜のツイートだったのでお眠だったのだろうと思います。しかし現在性のある嘘には優越感が付随するということは言えるのではないかと思います。

現在性の価値

  ここでいう『現代怪異の類』というのは都市伝説の類を想定しているのだろうと思います。先に述べたように都市伝説には「解明したい」という好奇心を惹きつける力がありますし、現代発祥のものであれば「言い出しっぺ」がどこかに居て人々が翻弄される様を見てほくそ笑んでいる可能性も考えられます。『一億総発信社会』とも言われる令和においてこの考えは「都市伝説の面白さ」の一つの根拠とも言えそうな気がしてきます。

 6月23日の深夜の私は発信者の特定可能性を重視しているように見えます。発信者と受信者の間の交信があることによって「嘘のオモシロ」が生まれるという考えに基づいているようです。そのため「現代」という時代区分を持ち出して近代以前の怪異譚との比較を試みているのだと思います。 発信者と受信者の相互間で水面下で繰り広げられる探り合いの中にオモシロが生まれるのであって、発信者が現存しないことが明らかな古典的な怪異譚については学術的な価値が先行してしまうため大衆娯楽的な性格が損なわれてしまうということなのだろうと思います。

 「利害関係者がいない」ことが前提となっている『フィクション』と、「誰かの利益を損なう危険」を孕んでいる『嘘』の両面を備えていることが陰謀論や都市伝説が面白い一つの要因になっているということになると思います。

まとめ

  ちゃんと自分でも分かっていたようです。例えば漫才師や落語家の話は事実に即している部分が多少あるにせよ笑い話として再構築されており、「必ずしも事実ではない」ということが前提となった「フィクション」です。相談を受けている相手が話している内容のすべてが事実とは限らず、どこかに保身のための「嘘」が含まれているかも知れない。オカルト本に書かれている説話は口承を筆記したのかどこぞの作家が書いたか分からないが多かれ少なかれ脚色が施されている。私たちは「作り話の可能性がある話」に出くわした時に恐らく無意識的にこういった勘ぐりを行っているのだろうと思います。陰謀論や都市伝説の類に見られる「あからさまな嘘」や「不必要な冗長性」はこういった日常生活における「勘ぐり」の予行演習や頭の体操(知的好奇心の試験運用)になるという点でオモシロを産んでいるのではないでしょうか。

おまけ

  嘘に伴う利益の計算についてとっかかりだけツイートしてました。三つ目の『嘘を守らせることによって相手(周囲)が得る利益』は「嘘に協力することで周囲が得られる利益」と言い換えた方がよさそうです。ところどころ追加修正して以下のようにまとめてみました。

  1. 嘘によって自分が得る利益
  2. 事実が明るみに出たときに自分が被る不利益
  3. 嘘の維持において自分が負担する費用
  4. 嘘に協力することで周囲が得られる利益
  5. 嘘に協力することで周囲が被る不利益

 相手(周囲)に対して誠実であろうとする場合には相手が得る利益を最大に、相手が被る不利益を最小にする必要があり、且つ相手が被る不利益よりも自分が負担する費用(コスト)が大きくなるようにしなければならず、事実が明るみに出たときに被る不利益が嘘によって自分が得る利益を下回ってはならないので5<3<1<2<4の順になろうと思います。自分で言うのもなんですが私は割とこういう考え方をする人間なのでいつも損してます。

 自分の利益を最優先し、他人を道具としか見ていないマキャベリストは2≦3≦4≦5<1になるようにうまく話を作るんでしょうね。めっちゃ怖い。

https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20200628000175_comm.jpg

(微笑むマキャベリ